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日本語で数える


日本語の数体系は中国語から輸入されたもので、10 が「十」、11 が「十一」というように完全に十進法で合理的だが、物を数える際には適切な助数詞を用いる必要があり、習得が難しいと言われる。例えば人間は「にん」で数えるが、普通の動物は「ひき」で数えるし、物は普通「個」で数える。

助数詞は日本語に特徴的なものだと思う人がいるかもしれないが、世界的に見ればありふれた存在である。一般に言語が名詞を分類する方法には二種類あり、東アジアとアメリカの言語の多くは類別詞で名詞を切り分ける。類別詞と名詞のつながりは緩やかで、一つの名詞に複数の類別詞を使えることも少なくない。日本語のように必ず数と結びつく類別詞を助数詞という。例えば中国語では、類別詞「個(个)(ge)」は「一個人」(一人の人)だけでなく「那個人」(あの人)にも使われるので助数詞とは言わない。類別詞は、例えば「一人の」と「一編の」など、同音異義語を区別するのに役立つ。一方、西ユーラシアとアフリカの言語の多くは名詞クラスと数(単数・複数など)で名詞を分類する。生物の性別と結びついた名詞クラスを性(ジェンダー)と言い、印欧語族によく見られる。ドイツ語の男性・女性・中性、フランス語の男性・女性、スウェーデン語の中性・通性(男女共通)というように色々ある。アフリカの言語はもっと細かい名詞クラスを持つことが多い。名詞クラスは類別詞と異なり、間違いは許されず、形容詞や冠詞にも影響を与える。普通、名詞クラスは種類が少なく、多くても二十種類ほどであるが、類別詞は最低でも数十種類ある。日本語でも、助数詞は百個以上ある。

だが、日本語の全ての助数詞が本当に必要なわけではない。例えば昔はたんすを「さお」で数えることがあった。これはたんす屋がたんすを運ぶときに棹を使ったからである。しかし現代ではたんすを一個、二個と数えて何も不都合はあるまい。同じく、鳥を一匹、二匹と数えても意味は通じるだろう。鳥は「」で数えるのだけが正しいとするなら、「匹」で数えるのは許されない。しかし意味は分かるのだから、これを誤りとするのは厳格すぎるだろう。我々日本語話者に求められるのは、少ない語彙を用いて意志疎通を図る学習者への寛容である。豊かな語彙は洗練された表現を生むが、その言語を学ぶ者にとっては苦痛になり得る。せっかく日本語は名詞クラスではなく類別詞を使っているのだから、名詞クラスのような厳しさを類別詞に求めるのは間違いである。英語以外のヨーロッパ語を学んだ人なら必ず性に苦しんだはずだ。従って、日本語学習者には最低限の助数詞をまず教え、それで通じるということを教えるべきだ。それから徐々に他のもっと適切な助数詞を教えれば良い。では、必要最小限の助数詞は何だろうか。基本的な助数詞がどこまで他の助数詞を肩代わりできるかを考えてみよう。

日本語の名詞は有生物と無生物に分かれる。それぞれ存在動詞に「いる」と「ある」を用いる。この有生物と無生物の区別を有生性というが、これは生物学的ではなく言語学的なもので、言語によって違いがある。日本語では人間を含む動物が有生物で、他は植物を含めて全て無生物だ。有生物と無生物の基本的な助数詞としてそれぞれ「匹」、「個」がある。人間は有生物だが「匹」では絶対に数えられず、「人」を使う。その他、大型の機械に「台」が必要だろう。私の感覚では、「飛行機一台」、「船一台」という言い方は日本語学習者なら許せる。「個」の他に「台」が必要なのは、何らかの自発的な動きを感じさせる物を動かない物と区別する意識があるからだろう。有生物と無生物を峻別しゅんべつする感覚が、無生物に対しても働くようだ。

これ以上は助数詞を減らせない。間違いの許容範囲を越えるからである。例えば皿を一枚、二枚と数える代わりに一個、二個と数えてもぎこちないだけだが、一匹、二匹と数えたら冗談としか思えない。象を一頭、二頭の代わりに一匹、二匹と数えるのは確かに違和感があるが、一人、二人と数えるのは論外だろう。なお、皿を一匹、二匹と数えるときに感じる不快さに比べれば飛行機を一個、二個と数えるのはましだと思う。

他に必須の助数詞はあるだろうか。「人」、「匹」、「個」・「台」という助数詞は人間、有生物、無生物という階層構造を表しているように見えるが、人間と無生物の間をよく考えてみると、実際には互いに対立する三角形の関係であることが分かる。人間と無生物の境界上にあるのは死体とロボットである。死体を一人、二人と数えることは許し難いが(「死体が二人ある」など)、一個、二個と数えるのも違和感がある(「人」よりはましだと思う。「死体が二個ある」など)。そうなると「たい」で数える方が良い。またロボットもいかにも機械という感じのものは「台」か「個」で良いが、SF に出てくるような人間そっくりの高度なものになると、やはり一体、二体がしっくりくると思う。不思議なことに存在動詞ははっきり判断できて、死体は「ある」、人間型ロボットは「いる」を使うと思う。恐らく意識に基づく動きの有無が重要なのだろう。

有生物と無生物の間には動かない(ように見える)動物、例えば貝があるが、これを数えるには「匹」でも「個」でも良い。「匹」と「個」の違いに応じて存在動詞は「いる」と「ある」を使い分ける。「匹」を使えば動物としての貝、「個」を使えば食べ物としての貝を表す。生物学者は単細胞動物も「個」で数える。精子は生物ではなく細胞なので、「個」で数えるべきであり、「匹」で数えるのはおかしい。動物の死体は小さいものは「個」で問題ない。「鼠の死体が二個ある」など。大きくなるにつれ「体」を使いたくなってくるが、人間の死体に「個」を使うほどの強い違和感はない。

人間と他の有生物の間は難問である。アウストラロピテクスなどの化石人類は人間と猿の間にあるが、「人」と「匹」のどちらを使うべきだろうか。猿人、原人、新人という段階の中で、「人」と「匹」の明確な境界があるのだろうか。私には判断がつかない。霊長類学者がチンパンジーに対して「人」を使うのを見たことがあるが、やや違和感がある。その他に人間と動物の間にあるものとしては鬼などの空想上の人型生物があるが、これは「人」でも「匹」でもどちらでも良いようだ。

以上から、「人」、「匹」、「個」、「台」、「体」が言い換え不能な基本的助数詞であると分かる。それ以外の助数詞は全て、言葉の美意識の問題である。もちろん我々は豊かな助数詞を捨て去る必要はない。ただ許容範囲を広げて、日本語学習者が意志疎通しやすいようにしたいだけである。



名詞クラスは性別や有生性に基づくことが多く、共通性があるが、類別詞は言語間でかなり違う。歴史的には日本語の類別詞は中国語に由来するが、中国語とずれていることがよくある。例えば日本語の「本」は細長い物の類別詞だが、中国語の「本 (bĕn)」は書物の類別詞だ。日本語では書物自体を「本」と呼ぶ。中国語で細長い物を数えるのは「条 (tiáo)」である。日本語の「せき」は船の類別詞だが、中国語の「隻(只)(zhī)」は「雙(双)(shuāng)」に対する言葉で、二つ組のうちの片方を意味する。漢語の「隻腕」、「隻眼」はそれぞれ片腕、片目のことだ。

中国語の類別詞は有生性にあまり関係がなく、形だけが重要だと言ってよい。日本語では蛇と棒は全く別物で、それぞれ動物と細長い物なので「匹」と「本」を使うが、中国語ではどちらも細長い物なので「条」を使う。逆に動物の中で類別詞がばらばらだ。例えば牛は「頭 (tóu)」、豚は「口 (kŏu)」、犬は「条」、魚は「尾 (wĕi)」で数える。ラクダを「峰 (fēng)」で数えることもある。これらは全て体の一部を使って数えている。犬の類別詞が「条」なのは、犬が細長いからではなく尻尾を数えているからだ。日本語でも「とう」と「」は使う。ただし「三頭のケルベロス」は一匹なのか三匹なのかよく分からない。面白いのはラクダの「峰」で、これはこぶを数えている。ただしフタコブラクダでも数は二倍にならない。鳥は片方を意味する「隻(只)」で数えるが、これは中国文化では鳥はつがいが標準だからだ。このように中国語では類別詞が複雑な上、類別詞に同音異義語を区別する役割があるため、安易に統一することはできない。ただしアルタイ諸語の影響で多音節化している北方の中国語は、類別詞がかなり簡単になっているが、その簡略化は有生性と無関係なので日本語とは相容れない。例えば北京語の口語では全てに「個(个)」を使って良いし、最もアルタイ化している東干ドンガン語(キルギスタンの少数言語、キリル文字で書かれる)では、類別詞は「гы(個)」しかない。日本語では人間に「個」を使うわけにはいかない。

中国語の数体系と類別詞を輸入する前、日本語には独自の数体系があったが、語尾「つ」または名詞を一の位の後だけでなくそれぞれの位のあとに入れなければならず、使いづらかった。例えば 2 個は「ふたつ」、2 年は「ふたとせ」で難しくないが、1976 年は「ちとせ・あまり・ここのももとせ・あまり・ななそとせ・あまり・むとせ」で、実に長たらしくなる。日本古来の数体系を捨てて中国語の合理的な数体系を手に入れつつ、複雑な類別詞をあまり取り入れず、うまく日本語に合わせた日本人の判断は正しかった。


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