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水無月の雨


現代日本語には月の名前はない。一月、二月の代わりに睦月むつき如月きさらぎと呼べば風情があるのは確かだが、憶えづらいので現代の言語には無用だろう。中国語に至っては曜日すら数字で分かりやすい。この月の名前の中に潜んでいる日本語の言葉の問題を説明する。

昔は六月を水無月みなづき、十月を神無月かんなづきと呼んだ。水が無い月とはどういうことだろう。中国文化圏の太陽太陰暦では一月に立春を置くため新暦から一か月ほど遅れるので、梅雨を意味する五月雨さみだれという言葉がある。旧暦の水無月は現在の七月に当たる。その上旬は梅雨で、続く夏も雨が比較的多い季節である。なぜ雨が降るのに水無月なのだろうか。

実は、「みなづき」の「な」は「無」ではないのだ。この「な」は現代日本語の「の」と同じ属格(所有格)を表す後置詞で、「水な月」とはつまり「水の月」、「神な月」とは「神の月」のことなのだ。「な」に「無」の字を使うのは単なる当て字である。だから水無月に雨が降るのは当然なのだ。神無月に日本中の神が出雲大社に行ってしまうので神がいなくなり、逆に出雲では神が集まるので「神有月かみありづき」と呼ぶというのは、「な」が使われなくなった時代に作られた俗信である。

この属格の後置詞「な」は平安時代にすでに古語になっていたが、今でも単語の中に生きている。例えば「まなこ」、「まなじり」、「まなざし」はそれぞれ「目な子」、「目な尻」、「目な差し」という意味だ。「ま」は目の古語である。「みなと」は「水な門」だし、「たなごころ」は「手な心」だ。

このような複合語は、その中の単語が使われなくなると途端に切れ目が感じられなくなる。昔の属格後置詞には他に「つ」や「が」があるが、「つ」は「まつげ」(目つ毛)の中に埋もれているし、「わがまま」(我が儘)の「が」も分からなくなっている。現代日本語の属格後置詞「の」も、「きのこ」(木の子)や「いのしし」(猪のしし、「しし」は獣)では埋もれている。

元来、日本語には言葉をつなげて新しい言葉を作る強い傾向がある。中国語では漢字が見えるし、全ての音節に意味があるので、くっ付きようがない。ヨーロッパの言語でも音節の種類が多く、元の単語の発音が残るので、なかなか切れ目が消えない。しかし日本語は音節の種類が少ないため、くっ付けた後に別の漢字を割り当てるともう分からなくなる。「きのこ」を「茸」と書けばもう切れ目は感じない。「さかな」は本来「酒菜」だし(魚は元は「うお」と呼ばれたが、肴によく使われたので「さかな」と呼ぶようになった)、「おみおつけ」は由来通りに漢字を書けば「御御御付け」である。つまり「つけ」を丁寧に「おつけ」と呼ぶうちに切れ目が分からなくなって更に丁寧に「みおつけ」と呼ぶようになり、これがまた分からなくなって更に丁寧に「おみおつけ」になったのだ。その他、動詞の「する」も多くの語に隠れている。「仕事」、「仕様」、「試合」、「幸せ」、「仕方がない」、「しようがない」に含まれる「し」は全て「する」の連用形だ。つまりこれらは「やりごと」、「やりよう」、「やり合い」、「やり合わせ」、「やり方がない」、「やりようがない」という意味だったのだ。

もともと日本語は膠着語こうちゃくごで、後置詞や動詞などが先行する名詞・動詞に直接くっ付く。だから日本語話者は単語の切れ目をあまり意識しないので、複合語が癒着して一語になりやすいのだろう。「水な月」の意味が失われるのは時間の問題だったのだ。



しかし、新しい単語が生まれるだけなら良い。問題は諺だ。諺は現代語に直さないで言葉の塊として言うのが普通だが、文法を現代語に直さないから理解が難しくなる。例えば、「情けは人のためならず」を誤解する人が多い。情けは他人の為ではない(巡り巡って自分の為になる)という意味であって、情けはその人の為にならないという意味ではないのだが、後者として解釈する人が少なくない。このように諺を言葉の塊として扱っているとやがて単語の切れ目が分からなくなり、意味不明になって捨てられてしまうかもしれない。諺を現代語に直せるならそうするべきだ。「水な月」の例で言えば、「な」を忘れるから水が無い月と誤解するのであって、途中で「水の月」と言い換えていれば良かったのだ。例えば、「虎穴こけつに入らずんば虎子こじを得ず」という諺をそのまま言うのは現代日本語話者のするべきことではない。「虎穴に入らないで虎子は得られない」と言えば良い。「燕雀えんじゃくいずくんぞ鴻鵠こうこくの志を知らんや」なら「燕雀に鴻鵠の志は分かるまい」だ。これなら文章に応じて応用も利くだろう。単語と文をはっきり区別するべきだ。文は新しい文法に合わせよう。


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