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日本語平等化計画


日本語を愛す者として、日本語がもっと国際的に使われて欲しいと願う。だがその実現には、日本語が隠し持つ男女不平等を乗り越えなければならない。

日本は世界的に見ても男女平等の後進国である。国連開発計画の 1995 年人間開発報告書によると、国家公務員の管理職のうち女性が占める割合は 8.0% で、これは調査された 116 か国中 81 位だ。一部の日本人は当然のように女性差別をするが、そのために自分たちが世界でいかに軽蔑されているかを知らない。また元々日本人は社会的戦いに慣れていないためか、諦めて現状に迎合する人は少なくない。だが社会とは個々人の集合であり、人々を意識改革すれば社会も変革できることを知るべきだ。そして意識改革のためには、思考の道具である言語を見つめ直す必要がある。言語を改革するのは思考を更なる自由へと導くためであり、決して規制を強化するためではない。



先行例として英語を見てみよう。アメリカでは 1960 年代後半から女性解放運動が活発になった。同時に運動家らは英語の男性中心主義を明らかにし、英語改革を目指して発言・行動していった。有名な改革例は、未婚女性に Miss、既婚女性に Mrs. を使っていたのを Ms. で統一したことや、議長を意味する chairman を廃止し、最初は chairperson、やがて単に chair を使うようになったことだろう。日本ではこれを言葉狩りと非難し、改革の行き過ぎを揶揄やゆする人々がいるが、一歩も足を踏み出さないで先駆者を笑うのはおこがましい。

英語がいかに男性中心的かは、man という単語を見れば分かる。英語は人間を表す一般的な単語を持たない異常な言語である。それゆえ、man という男を表す単語を人間を表すために流用するが、女を表さないために種々の問題を引き起こす。例えば日本語で以下の二文を考えてみる。

1. 人間は猿の一種である。
2. 他の哺乳類と同じく、人間は子に授乳する。
文 1 の英訳は次のようになる。

1'. Man is a kind of monkey.
この文では男を表す単語 man を人間の意味に使っている。一方、文 2 において man を人間の意味で使うと誤りとなる。

2'. *Man, like other mammals, breastfeeds his young.
(言語学の規則で、文頭のアスタリスクは誤りを表す)
この文が誤りなのは、授乳を意味する動詞 breastfeed が女性を暗示するため、man と同時には使えないからだ。従来の文法家は man は男と人の両方の意味があると説明してきたが、この例で man はあくまでも男であることが分かるだろう。つまり、英語には男を人間の標準とする考えがあると分かる。しかしもちろん女も人間であり、どちらが標準的ということはない。かつて英語には fireman, policeman, repairman など、man を接尾辞とする大量の職業名が存在した。fireman に対応する女性形は firewoman であり *woman fireman や *female fireman などとは言えないため、単に fireman とあったら普通は男性だけを思い浮かべてしまう。フェミニストらの活動の結果、アメリカ政府はこれらの職業名を全て man が入らない形に変えていった。fireman は firefighter、policeman は police officer、repairman は repairer というようにである。人間一般を表すには human being や humankind を、ある個人を表すには person をよく使うようになった。また、steward → stewardess, waiter → waitress のように女性形を作る接尾辞 -ess も使われなくなってきた。これらは今ではそれぞれ flight attendant, server と呼ばれる。現在、これらの語はアメリカ以外の英語使用者および英語学習者にも広く受け入れられている。ちなみにアメリカにはハリケーンに人名を付ける習慣があるが、1979 年からは女性だけでなく男性の名も付けるようになった。

かつて、英語の名詞の女性形は単に有標(目印がある語形)であり、男性形は単に無標(目印がない語形)なのであって、差別ではない、という反論が出た。皮肉にもこの指摘が、有標性が鍵であることを明らかにした。無標は標準的なものを表し、有標は非標準的なものを表す。なぜ女性がいつも非標準でなければならないのかが問われているのだ。



アメリカでの英語改革の動きを受けてヨーロッパでも言語改革が進められたが、英語ほど簡単には進まなかった。多くのヨーロッパ語には性があり、男性名詞と女性名詞を区別するからである。男性名詞で表される職業に就いている女性を表す場合、あるいは女性名詞で表される職業に就いている男性を表す場合、同一人物に男性形と女性形が使われることになり、混乱してしまう。

男性・女性がある言語の中では、スペイン語(カスティーリャ語)が順調に改革された。スペイン語では多くの場合、el amigo (男の友人) と la amiga (女の友人) のように、男性名詞が -o、女性名詞が -a で終わるため、男性名詞から容易に女性名詞を作れるからである。例えば弁護士は el abogado という男性形しかなかったので、当初は女性弁護士を la abogado (女性冠詞 + 男性名詞) と表したが、やがて la abogada という女性形が自然に作られて広まった。しかし男女双方を含む複数の弁護士を表す場合、男性複数形である los abogados を用い、女性複数形 las abogadas は全員が女性の時にしか使えない点で男性優位が残っている。代名詞も同じで、三人称複数が一人でも男性を含むなら ellos を使い、女性だけなら ellas を使う。この非対称性は今のところ解決されていない。非公式な文書では、a と o の両方を表す字として @ が使われることがある。例えば amigos と amigas を合わせて amig@s と書く。

ドイツ語では der Student (男子学生) と die Studentin (女子学生) のように女性名詞は -in で終わることが多いため、新たに -in を付けた語が作られていった。しかしこれはまずい方法である。男性形が無標で、女性形が有標だからだ。スペイン語の -o と -a は対称だが、ドイツ語の -Ø (何も付けない) と -in は明らかに非対称であり、男性が標準のままだ。前述の語の複数形はそれぞれ die Studenten と die Studentinnen で、従来はスペイン語のように一人でも男を含むなら男性名詞の複数形を使っていたが、近年は公平を期すため die Studentinnen und die Studenten と書くことも増えた。しかし長すぎるので、die StudentInnen, die Studenten/innen, die Student(inn)en と略されることも多い。文が長くなる問題は、形容詞が付くと一層明らかになる。例えば求人広告で、「経験豊富なコンピュータ技術者」を募集する場合、正確には (Wir brauchen) eine erfahrene Informatikerin oder einen erfahrenen Informatiker となる。近年は、eine/n erfahrene/n Informatiker/in, eine erfahrene InformatikerIn などと書く。

フランス語はさらに複雑で、男性名詞と女性名詞の間に一般的な規則がなく、また文法上の性の役割が強いため冠詞と名詞の性の不一致が許されない。この困難さゆえに言語改革が遅れ、1994 年にはヨーロッパ議会が名指しでフランス語の男女平等を実現するよう勧告を出したほどである。その後は政府主導で急速に女性名詞が作られたが、依然として抵抗がある。なお、このことはフランスで男女平等が遅れていることを意味しない。多様性を信じるアングロサクソン社会では、女性や黒人や同性愛者は非主流派として闘う必要があったが、人間の普遍性を信じるフランス社会では、ことさら人間を男と女に分けるアメリカ流フェミニズムに違和感を持ち、文法上の性を問題視しない人が多いのだ。日本でも、言葉の性差は些細ささいなことだと考える人は多いが、人間の平等を信じているわけではないので、フランスとは本質的に異なる。

このようにスペイン語、ドイツ語、フランス語は男性名詞から女性名詞を作ることで男女平等を図っているが、男女共通の語がないと不正確になる欠点がある。例えば、日本語の「最優秀学生の女性」と「最優秀の女子学生」では明らかに意味が違う。後者はもっと良い男子学生がいるかもしれない。ドイツ語の die tüchtigste Studentin は「最優秀学生」の女性形だが、どちらの意味かははっきりしない。また法律などで厳密な表現が必要な場合にいちいち「男子学生および女子学生」というのは面倒くさい。

エスペラント語は人工言語であり、よく考えられた語彙体系を持つが、ヨーロッパ語を背景に誕生したため、一部の語彙で男性形を標準とし女性形を女性化接尾辞 -in を用いて派生するという過ちを犯した。ザメンホフがエスペラント語を設計した時代にはこれが失敗だとは誰も考えなかったが、今では問題となっている。またエスペラント語使用者の母語は性を持つヨーロッパ語であることが多かったため、本来中性である語まで男性形だと思いこみ、女性に対しては必ず女性化接尾辞 -in を使うのだという誤解をしている人が少なくないという。これに対し、ri 主義と呼ばれる改革案が出てきた。これは、全ての標準形を中性とし、必要に応じて女性化接尾辞 -in と男性化接尾辞 -iĉ を用い、また三人称単数の人称代名詞 ŝi (彼女) と li (彼) をやめて新たに考案された中性の ri を用いるというものである。以下に例を挙げる。

分類日本語標準エスペラント語ri 主義エスペラント語
gepatro
ge+patr+o
中性名詞
patro
patr+o
名詞
patro
patr+o
名詞
patriĉo
patr++o
名詞
patrino
patr+in+o
名詞
patrino
patr+in+o
名詞
hundo
hund+o
名詞
hundo
hund+o
名詞
雄犬 virhundo
vir+hund+o
名詞
hundiĉo
hund++o
名詞
雌犬 hundino
hund+in+o
名詞
hundino
hund+in+o
名詞

このように ri 主義は合理的な解決法だが、エスペラント語は人工言語であり文法規範の力が強いため、一部の人々から新しい習慣を始めて徐々に広めるという戦術が使いづらい。ri 主義の帰趨きすうはまだ不透明である。



日本語に戻ろう。日本語は女性差別的であると外国人からよく指摘される。例えば文末の「わ」や「ぜ」、一人称の「あたし」や「俺」、「僕」などに女と男の差が表れている。だが実は日本語の男女差は語彙と用語法だけに表れており、文法自体は中立なのである。女性が「俺」を使っても社会的におかしいと思う人がいるだけで、文法的には正しい。つまり女性が「俺」を使った場合、自分を示しているのは明らかであり、言語能力が疑われることはない。一方、ヨーロッパ語のほとんどは名詞・形容詞・冠詞に男性女性の区別があり、男性形が標準になっていることが多い。それがない英語でも上記の man に見られるように男性中心主義が文法に組み込まれているし、prince と princess のように男性形が無標である。従って、一見長い道のりに見える日本語改革も意外に容易である可能性がある。アメリカでの英語改革は 30 年かかったが、強い意志さえあれば日本語ではもっと短い期間で完了できるだろう。

このような言語改革案に感情的な反発は付き物である。言語は極めて強い慣習なので、価値観を共有しない人々が反発するのも無理はない。だが注意して欲しいのは、これが強制ではなく代替語の提案だということだ。アメリカの場合も、政府は男女平等の語を用いているが、個人が従来通りの性特定語を使うのを禁止する法律があるわけではない。しかし真に男女平等を実現したいなら、それにふさわしい言葉を自発的に用いる必要がある。

差別か否かで不毛な議論をするのを避けるため、改革の基準をここで明確にしたい。

  1. 一方の性を持ち上げたり見下したりする語は男女平等ではない。「雄々しい」は褒め言葉で、「女々しい」は侮辱であり、どちらも不適切である。

  2. 一方の性を標準とし、他方の性を特殊とする用語は男女平等ではない。例えば「女流作家」は女性の作家を意味するが、「男流作家」という語はないので、作家は男が標準で女が特殊だという考えが隠れている。

  3. 男女それぞれを指す用語はあるが両性を含む用語がないのは、男女平等ではあり得るが不便であり、得てして一方で全体を意味しようとして不平等になる。保育園で働く人たちを「保母」と「保父」と呼ぶのは男女平等だが、まとめて「保母」と呼べば、女が標準で男が特殊だという考えを表すことになる。



今、私が気にしている言葉と、代替語を以下に記す。この提案は強制されるべきではないが、自発的な賛同者が増えることを望んでいる。それが日本語の男女平等化、ひいては国際化に必要だと考えるからだ。言語を国際化するためには、万人に公平な語彙と文法を実現する必要がある。狭い日本社会の視点で日本語の進化を妨げるなら、日本語が見捨てられても不思議ではあるまい。

主人しゅじん亭主ていしゅ旦那だんな - 自分の夫:
これらは全て家長を表す。また「主人」は家来に対する主人という意味もあるので、まるで妻が夫の家来であるようにも見える。いえ制度は日本の伝統のように見えて実は明治時代に家族を国家に統合するために急造された制度であり、武家を除けば女性差別の伝統があったわけではないし、現代社会での結婚における両性の平等を守るためにも、これらの単語を使用するべきではない。日本語学習者にとってもこれらは奇妙に映る。「旦那」は「主人」、「亭主」よりは良いが、妻側に対応する語がなく、勧められない。自分の夫について述べるときは「夫」を使うべきだ。自分の夫を「主人」と呼ぶ人は、自分の尊厳を傷付けていることに気付いていない。なお「主人」が一般化したのは戦後のことであり、それ以前は「夫」が普通だった。「夫」の代わりに「伴侶はんりょ」を用いても良い。「連れ合い」や「パートナー」は後述するように他人の配偶者を差す時は使いづらいので一貫性に欠ける。英語の「ダーリン」や和製英語の「ハズ」を使うのは安易だし気取って聞こえる。聞き手が親しいなら、夫の名を使うほうが良い。

家内かない女房にょうぼう細君さいくんよめさん - 自分の妻:
妻は必ずしも家庭業だけをしているわけではなく、対応する夫用の単語もないので、「家内」や「女房」は不適当だ。「細君」は悪意はないが、弱者であることを感じさせる。「嫁さん」は家の中での立場に基づいており、また夫はたとえ婿養子でも「婿さん」とは呼ばれないので釣り合わない。妻には普通に「つま」を使おう。「伴侶」でも良い。なお「家内」は昭和に入って一般化した語で、それ以前は「さい」がよく使われたという。「ワイフ」は「ハズ」と同様に安易である。聞き手が親しいなら、妻の名を使うほうが良い。

主人しゅじん旦那だんな旦那様だんなさま夫君ふくん - 他人の夫:
「夫」という単語は「父」・「母」と同じく尊敬表現には使えない。「夫君」は良いように見えるが、対応する「妻君さいくん」は「細君」と同じで尊敬語ではなく、釣り合わない。夫の名に「さん」・「様」を付けて呼ぶのが良いが、分からない場合や距離を置きたい場合には「ご伴侶」を用いると良い。他に「お連れ合い」、「パートナー」などの言葉があるが、良い代替語ではない。例えば以前ニュージーランド首相が夫と共に来日した際、外務省では「ニュージーランド首相ジェニー・シップレー閣下および同夫君」と呼んでいた。これを「首相閣下および同ご伴侶」にするのは問題ないが、「首相閣下および同お連れ合い」では軽過ぎるし、「首相閣下および同パートナー」では何のパートナーなのか不明である。

夫人ふじん - 他人の妻:
「夫人」は重要人物の妻の意味で使われることがあるが、夫の所有する人という意味があり不適切である。代わりに「妻」を使うべきだ。「ヒラリー夫人」のように肩書きの「夫人」も使わず、「ヒラリー・クリントン氏」と表現する。

おくさん、奥様おくさま令夫人れいふじん令閨れいけい令室れいしつ - 他人の妻:
「令夫人」は「夫人」を含み、不適切だ。他は全て妻は家にとどまるという偏見があり、好ましくない。夫と同様、妻の名に「さん」・「様」を付けて呼ぶか、「ご伴侶」を用いる。結婚式に夫婦を招待したときなど、夫を肩書きと名前で示し、妻を「令夫人」で示すことがあるが、妻は夫のおまけではないのだから失礼である。

主人しゅじんおくさん、奥様おくさま - 顧客への呼びかけ:
男性中心的な推測を顧客に押し付けるべきではない。「お客様」、「お客さん」を使う。

愚夫ぐふ愚妻ぐさい - 自分の配偶者:
「愚妻」はたまに聞かれるが「愚夫」はほとんど使われない。夫が妻を卑下するのはかまわないが妻が夫を卑下するのは許されないらしい。「こちらが私の愚妻です」と紹介されて「いつも愚夫がお世話になっております」と言えるなら問題はないが、そうでないなら今後は「夫」、「妻」、または「伴侶」を用いるべきである。また「愚父」、「愚母」、「愚息」、「愚女」などの親族名称も使用しないで「父」、「母」、「息子」、「娘」などを使うほうが良い。

「愚」が自己の卑称であるため「愚妻」を単に「私の妻」と解釈する人がいるが、これは誤りで、見た通り「愚かな妻」の意である。これは「愚臣」という語が「愚かな臣下」という意の臣下の自称で、「私の臣下」という意ではないことから明らかだろう。

未亡人みぼうじん後家ごけ
「未亡人」は未だ亡くならない人という意味で、まるで女性が夫の死後に生きるのが悪いかのようだ。また「後家」も女性にしか使われず、両性が対称になっていない。「夫と死別した女性」は長たらしいので、「死別者」を使うと良いだろう。これは国勢調査における配偶関係の四分類(未婚者、有配偶者、死別者、離別者)の一つであり、正式な用語である。女性の「寡婦かふ」と「やもめ」、および対応する男性の「寡夫かふ」、「鰥夫かんぷ」、「やもお」は差別的ではないが、性別の情報が必要な場合のみ使うべきだ。「寡フ」で寡婦と寡夫の両方を表すのを見たことがあるが、日本語の表記として不自然である。

妻帯者さいたいしゃ人妻ひとづま
妻がいる男性は「妻帯者」と呼ばれ、夫がいる女性は「人妻」と呼ばれる。男は妻を持つかどうか、女は他人の妻かどうかが問われる。すなわちどちらも男が女を所有するという意識がある。また「人妻」は恋愛・性愛の対象となることを暗に示し、老女性には使われないため、性の対象であることに存在価値がおかれている。そのため「人夫ひとおっと」という語はない。もちろん「人夫にんぷ」は無関係である。「夫帯者」はまれに使われるが、男女で異なる語を使うのは不便だ。やや硬いが、国勢調査の用語である「有配偶者ゆうはいぐうしゃ」を使うべきだろう。国勢調査ではこの他に未婚者、離別者、死別者という分類がある。未婚者以外をまとめて「既婚者」と呼ぶが、誤解がないなら「有配偶者」の代わりにそれを用いても良い。一部の人は、「未婚者」はまだ結婚していない人という意味なので人はいつか結婚するという価値観が隠れている、と主張するが、「既婚者」、「未婚者」は単に結婚の経験の有無をいうだけであり、離婚しても再婚しても既婚者は既婚者なので問題はない。

女史じょし
新聞では、女性の重要人物に限り「氏」の代わりに「女史」を用いることがあるが、全て「氏」で統一しよう。また、男に「氏」、女に「さん」を使うのは、「氏」のほうが重要そうなので明らかに差別だ。一つの文章内で「氏」か「さん」のどちらかに統一する。

看護婦かんごふ看護士かんごし保健婦ほけんふ保健士ほけんし助産婦じょさんぷ
「婦」の付く語が多く使われるのは女性が標準であることを意味しているが、実際には同じ職に就く男性もいる。2002 年の法改正で「看護師かんごし」、「保健師ほけんし」、「助産師じょさんし」が両性を含む正式な名称となったので今後はそれらを使う。法律名も「保健婦助産婦看護婦法」から「保健師助産師看護師法」になった。同時に「婦長」も「看護師長」と呼ぶべきである。以前は男女で職業名を使い分けていたため不便だったという。「弁護士」、「司法書士」など、資格職は「士」で終わることが多いが、医師と対等にするため、および「士」が「看護士」、「保健士」に使われていたために「師」が採用されたらしい。

保母ほぼ保父ほふ
1999 年の児童福祉法施行令の改正で「保育士」が正式な名称となったのでそれを使う。それまでは男女共に「保母」が正式名称で、男性の保母は俗に「保父」と呼ばれていた。

女流文学じょりゅうぶんがく女流作家じょりゅうさっか女流詩人じょりゅうしじん
それぞれ「文学」、「作家」、「詩人」を使う。あえて「女」の冠を付けると、狭い枠に閉じこめようとする意図が感じられる。例えば「女流文学」と呼ぶと、SF、ミステリー、歴史小説などと並べられる一種のジャンルのように見えるが、女性作家の作品も男性のと同様に内容で分類されるべきである。「男流」という言葉はない。

女医じょい
「医師」や「医者」を用いる。男性医師を単に「医師」と呼び、女性医師を「女医」と呼ぶのは非対称である。性別が必要な時に「男医」と並べて使うのはかまわない。

婦警ふけい
警察官は職種で分類されるべきで、性別が本当に必要な情報である場合は少ない。「夫警」という語もない。「婦警」は大抵、交通課の警官を指しているので、「警官」、「巡査」などを用いる。

処女作しょじょさく処女航海しょじょこうかい処女地しょじょち処女峰しょじょほう処女林しょじょりん
これらに含まれる「処女」は英語の virgin または maiden の翻訳であるが、英語の悪い点をまねるべきではない。日本語の「処女」は性的な意味合いが強く、また女性のみを示すので使わないほうが良い。それぞれ「第一作」または「初作品」、「初航海」、「未踏地」、「未踏峰」、「原生林」を使う。

サラリーマン、ビジネスマン:
前述した英語の man 問題を引きずっており、女性に使われることは少ない。加えて salary man は和製英語であり英語圏で良い印象はないし、英語の businessman は経営者を指すので意味がずれている。代わりに「会社員」、「勤め人」、「月給取り」などを使う。

OL:
安易に使われる略語だが、そもそも office lady というのは和製英語で英語話者には通じないし、職業名に lady を使うのはアメリカでは既に廃止されているので、前項と同様に「会社員」にするべきだ。あえて職種の違いを強調するなら「事務員」を使う。

ゆう
「雄」の字は漢語では強大の意味でよく使われる。細かいようだが、これらの単語一つ一つが再考を要する。「英雄」は「英傑」、「勇者」、「偉人」に、「両雄」は「双璧」、「二強」、「二傑」、「竜虎」に、「雄飛」は「飛躍」、「躍進」、「活躍」に、「雄大」は「壮大」に言い換える。

逆に「雌」の字は弱小の意味で使われる。「雌雄を決する」、「雌雄を争う」はそれぞれ「勝敗を決する」、「勝敗を争う」に置き換える。「雌伏」は言い換えが難しいが、「下積み」、「助走」、「蓄力」などを使う。雌伏する人物には「臥竜がりょう」、「伏竜ふくりょう」という言葉が使える。

女々めめしい:
この言葉は男を侮辱するのに使われる。悪い意味で片方の性を使うのは失礼だ。「弱々しい」や「軟弱」を使う。

雄々おおしい、男々おおしい:
一方の性だけを持ち上げており、また「女々しい」と対比されるので、使うべきでない。「勇ましい」や「猛々しい」を使う。

おれぼく
現在は男性のみが使うとされているが、前述したようにこれは社会的な要請で、文法的には問題ない。よって女性が「俺」・「僕」を用いるのはかまわない。

かれ彼女かのじょ
明治初頭までは「彼」で男女どちらも指せた。例えば森鴎外の「舞姫」ではエリスを一貫して「彼」と呼んでいる。その後ヨーロッパ語の男女の三人称を翻訳するために「おんな」という言葉が作られ、やがて「彼女かのじょ」と呼ばれるようになった。今からすれば男女を区別しない日本語のほうが優れていたのだが、当時の日本人はそこまで見通せなかった。「彼」と「彼女」は見た目が非対称だが、適当な代替語がなく、また差別意識も特にないので、今すぐ変えなくても良いだろう。

しかし「彼ら」には注意を要する。男女両方含んだり、時には女性しか含まないのに「彼ら」を使うことがある。英語の they の訳語が「彼ら」である影響だが、「彼ら」は明らかに男が中心にいるため、避けるべきである。最近は動物に対しても「彼ら」を使うことがある。そもそも代名詞で押し通すのは日本語としてこなれた表現ではないが、せめて「それら」を使いたい。

わ:
文末の「わ」を自ら使うのはかまわないだろう。だが他の女性の発言を引用や翻訳するときに勝手に付け足すのは捏造ねつぞうであり、してはならない。

かみ
英語の god を単に「神」と訳すことが多いが、正しくないことがある。英語は男性中心主義なので、神に性別がある場合、男の神を単に god と呼び、女の神を goddess と呼ぶ。その場合は必ず god を「男神おがみ」と訳し、「女神めがみ」と対比させる。例えばギリシャ神話のアフロディテを「美と愛の女神」と呼ぶなら、アレスを「戦いの男神」と呼ぶ。

俳優はいゆう男優だんゆう女優じょゆう
本来「俳優」は男女両方を含むので、男の俳優を「男優」、女の俳優を「女優」と呼ぶべきだが、「俳優」と「女優」の組みで使われることがある。「俳優は人を演じ、女優は女を演じる」という言葉があるが、隠された男性中心主義を端的に表した表現といえよう。ポルノ男優が「AV 俳優」ではなく「AV 男優」と呼ばれるのも、人を演じるのではなく男を演じているからだと考えれば納得がいく。性別に関わらず「役者」、「俳優」を使うか、「男優」と「女優」を並べて使うべきだ。

英語でも全く同じ問題がある。アカデミー賞の主演賞には the best leading actor と the best leading actress があるが、前者は「最優秀主演俳優」という意味で、あたかも最優秀主演俳優は常に男優であり、女優は劣っているという感じがしてしまう。「名人」と「女流名人」のようなものだ。これを the best leading male actor (最優秀主演男優) と the best leading female actor (最優秀主演女優) に変えようとする動きがあるのも当然だろう。



北原みのり氏からの孫引きになるが、小泉純一郎氏が自民党総裁選に出る前、はるか洋子氏と以下のようなやりとりをしたという。

遥:ところで私は小泉さんは女性政策を考えているという点で、とても期待をしているのですが、一つとても気になることがあります。それは、小泉さんが「男ならでは」とか「男として」、「男ならば逃げない」という言葉をよく使われることなんですが、それは、女性にはできない、女性はすぐ逃げる、ということをおっしゃっているのですか?
小泉:あなた、それは違いますよ。英語でも man は男という意味だけれども、人間としても使う。言葉には習慣というものがある。私は「男」という時に「人間は」という意味と同じように使っているんです。
遥:そうであれば、「女も男も」と言ってほしいんですが。
小泉:だからね、英語でも man は男と人間を両方意味するんだから。それは言葉の習慣の問題だから。

すでに見たとおり、man を人間にも使うのは英語の解消されるべき欠点である。それを持ち出して日本語でも「男」を人間という意味で使うと説明するのは無意味だし、そもそも日本語には「男」が人間を意味する習慣はない。半可通は見苦しい。人の考えは言葉に表れ、また言葉は常に政治的であり得るため、遥氏の指摘は鋭いが、ほとんど注目されなかった。


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