映画「コンタクト」を見て


映画「コンタクト」は先日他界したカール・セーガンが原作の SF 作品である。最近のハリウッドの宇宙人ブームの中で作られた映画の中では出色の出来だ。ジョディー・フォスター演じる、天文学者エリーのほとんど狂気じみた信念と学者魂が強烈に輝いている。この映画は始まり方が大変素晴らしい。地球の電波が宇宙に広がり何者かに聞き取られるのを予想させるかのような、果てしないパンで地球から出発した視界は、太陽系を離れ、銀河系を離れ、銀河団を離れ、そして数千万の銀河を含む宇宙全体を一望したその瞬間、宇宙の闇が少女の瞳の闇にとけ込むのだ。ハム無線に熱中するその少女こそ、エリーの少女時代なのである。宇宙の彼方までも見通すかのような、その澄んだ瞳は秘められた才気を感じさせる。このオープニングは映画館の大画面で見てこそ意味がある。

電波望遠鏡で受信した謎の信号。それが地球外文明からの初の「応答」だった。実は地球からの初のテレビ電波を受信した地球外文明がその電波に別の情報を付け足して送り返してきたものだったのだ。つまり人類は何者かに待たれていたのである。送られてきた未知の装置の設計図に従い、巨大な機械が作成された。この機械は 1 人乗りの何らかの移動装置だ。誰を送るのか。ここで、この映画の最大のテーマである、人間と宗教、科学のかかわり合いが論じられる。果たして宗教とは人間にとって何なのか。無宗教の日本人として、人々が真剣な態度で宗教と科学について論じるのには正直言って違和感があった。エリーは生粋の科学者であり、論理的な冗長物である神の存在は認めない。地球外文明と対話するためには、数学という宇宙に普遍的な知識が必要であると主張する。しかし最終的に、エリーの上司が選ばれてしまう。彼はエリーが無宗教であることを攻撃し、人間の文化としての神への畏敬の念を、人類の代表が持つべき特性だと主張したのだ。だが皮肉にも、彼は移動装置と共に、科学を否定する狂信者集団に爆殺されてしまう。宗教は本当に必要なのか、その答えをこの映画が準備しているわけではないが、宗教など必要ないと考える多くの日本人にとって、装置を爆破した狂信者集団こそが宗教の本質であるように見えるだろう。だが、話はそれで終わりはしない。

予備の移動装置に乗り組み、エリーはついに時空を越えた旅を経験する。それに耐える精神力の描写は綿密で十分長く、緊迫感がある。ワームホールの描写も美しい。そして最後に着くのはなぜか子供の頃に空想したペンサコラ(フロリダの町の名)だ。そして近づいてくるのは心臓発作で死んだはずのエリーの父親である。科学者であるエリーは、それが別の文明を持つ生命体が姿を変えて現れたものであるとすぐに悟る。その高度な存在が地球人を見る目は、穏やかで優しい。彼らは何十億年もそうやって暮らしてきたのだ。だがエリーが再び気が付くと、地球に戻っており、しかも地球では全く時間が経過していなかった。エリーは別の文明に接触したという証拠を示すことができないため、人々から信用されない。だがエリーはそれでもなお、自分の経験を主張するしかなかった。彼女の心(彼女の存在と言っても良い)が、その体験を否定することを許さなかったからだ。それはまさに、神と会ったと主張する宗教家と同じだ。科学が最終的に宗教に戻ってきてしまったのだ。エリーが会った存在を、神と呼んではならない理由はあるのだろうか? 人間は、人間をはるかに越える存在を果たして語ることができるのだろうか?

神は存在するのだろうか。もし存在するなら、神とは何なのだろうか。恐らくキリスト教文化の人間ならばこれらの問いを一度は考えたことがあるのだろう。一方、無宗教と言われる日本人は、考え抜いた末の確信を持って神はいないと言っている人は多くない。この真理に対する真摯さの差が、社会の規範が崩壊した現代社会でいかに個人が規範を持つかという点において、日本人が欧米人に及ばない原因の一つかもしれない。いかがわしい新興宗教は欧米にも日本にもあるが、日本は伝統的宗教が新興宗教と同じ程度の影響力しか持っていないという点が大きく異なる。そのため、星占いや血液型占いを含めて、かえって日本人はうさん臭い非科学的思想の餌食になりやすくなっている。「コンタクト」で印象的なのは、エリーがエリーの父親の姿をした高度な存在を即座に見破るシーンである。その高度な存在は、外見に惑わされないエリーの科学者としての態度を誉めるのだ。だがエリー自身は、地球に帰還したときに科学者ゆえにこの遭遇を説明することができない。証拠がないからだ。だがエリーは科学者としての良心を最後まで失うことはない。人間として、神の存在を信じることは本能なのかも知れない。だが、分からないものをただ受け入れる無批判の精神が、最も批判されるべきものなのだ。未知の物に対して常に、自分の体験に対してすら、批判的に接することを怠らないエリーは、だからこそ格好がよいのである。



目次に戻る

Copyright(C) 高杉親知 (tssf.airnet.ne.jp)