映画「もののけ姫」を見て


8 月 2 日、宮崎駿の「もののけ姫」を見た。重い映画だ。最初の導入部、非常に美しい映像で描かれる豊かな自然の中で暮らす人々、そこに突如として異形の怪物が現れる。その怪物によって、主人公アシタカが旅立つ運命を与えられる。そしてアシタカは、「もののけ姫」サンとの出会い、製鉄民を統括するエボシ御前との出会いを体験する。サンは荒ぶる野性の存在だが、同時にまた少女の美しさと優しさを内に秘めている。エボシ御前はその毅然とした態度にも関わらず、実は被差別民を進んで受け入れる面も持っている。対立する 2 人であるが、どちらが正しいというわけではないのだ。そしてアシタカは、生死を超越する森の神シシ神とも出会う。しかしアシタカの運命に対して結局誰も回答を与えることはない。聞けばすぐに分かるような、あるいはすぐに問題を解決するような、アシタカへの答えは何一つ得られないのだ。シシ神の森の崩壊と再生の後、アシタカが掴むのは結局、「生きろ」というメッセージだけである。人間と自然との激しい戦いの後、人間は死に、自然も死ぬ。しかし生き残った人間と自然、それぞれが絶望の中で思うのは、これからも生き続けようという強い意志、未来を掴み取る意志である。この世の問題は結局解決しないかも知れない、この世は結局無意味で辛いだけかも知れない。しかしアシタカやサンらは、ただ力強く生きようという意志を掴む。自分を信じて生き抜くこと、人間にできることは結局それしかないのだから。

アシタカは途中で何度か、サンを救えるか考える。しかし果たして自分は誰かを救うことができるのか、答えは得られない。サンは自然の中で育てられ、自然を際限なく破壊する人間に対して激しい怒りを抱いている。その感情の隔たりがアシタカとサンの心を一つにしない。サンが瀕死のアシタカに口移しで食事をさせるとき、ほのかなエロティックさがまぶしく、温かい。そしてアシタカはサンの横で睡眠をとり、サンの心の優しさを感じる。だがサンの育て親の山犬にサンを人間として救う意を示しても、一笑に付されるだけに終わる。アシタカはサンのことを本当には分かっていないからだ。2 人の間に本当の理解はなく、ましてや一緒に暮らすという意味での愛はないのだ。だが、そもそもサンとアシタカが共に暮らすことは解決法であり得るのか? それが生み出すものは逃避だけではないだろうか。

だが戦いが終わり最後に 2 人は、生きるということの意味を掴む。2 人は心を通わせつつ別々の人生を歩むことを確認し、自らの未来を自らの手で掴み取る決意を表明するのだ。再会を誓う 2 人の笑顔が美しい。エボシらと共に生きる決意をしたアシタカと、自然の中で生きる決意をしたサンとの間では、いずれまた衝突が起きるかも知れない。だが、アシタカもサンもそれから逃げずに受け止めることができるだろう。戦いの終わりは幸せな大団円ではない。戦いの終わりとは、現実の中で再び歩み出す始まりなのだ。

私はこの映画を見ている最中には手に汗握る興奮というものは感じなかった。アシタカの寡黙さがそうさせているのかも知れない。そして、最後はハッピーエンドではない。このカタルシスの回避は宮崎駿の意図的なものだ。だが、映画を反芻しつつ家に帰る途中で、他の映画にはほとんど感じられない強い余韻を味わった。こうして感想を書いているのは映画を見た 2 日後だが、ますます余韻は強まっているように思う。今、私たちが生きる世の中もまた辛く重く、逃げ出して楽しく暮らして行きたいと思う。そして実際、今の日本で楽しく暮らすのはそう難しいことではない。だが、現実が辛いか楽しいかに関わらず、私たちが必要としているのは、ただ前に進もうという意志なのではないか? そして私たちはその意志を自らの手で掴み取らなければならないのだ。果たして私たちは今、現実を見つめ、まっすぐに生きて行くという決意を胸に抱いているだろうか。

現在の日本での興業成績は非常に良く、このままのペースなら日本の映画史上最高の売り上げを記録しそうだという。この映画はディズニーによって世界的に公開されるそうだが、果たして海外で一般的な評価が得られるのかどうか分からない。あまりに日本的な、人間と自然との葛藤が理解されるのか不明だからだ。

この映画への感想は賛否両論といったところである。高く評価する人の中にも、何回も見てやっと良さが分かったという人もいる。確かに「もののけ姫」は「天空の城ラピュタ」のような、朗らかな作品ではない。私は当初、娯楽作品かと思って見に行ったのでその生真面目さにはいささか驚いた。だが、苦しい現代社会を生きる私たちにとって、「もののけ姫」は力強い回答だろう。それは決して分かりやすい答ではない。だがそれが分かりやすい答でないということが、アシタカやサンが私たちに教えてくれたことの一つなのだ。

最近の私たちは映画における情熱というものを軽んじているような気がする。特撮が素晴らしければヒットするような風潮の中で、果たして私たち観客は傑作を生み出してきただろうか? 私は昨年「インディペンデンス・デイ」を見て、もはやハリウッドが袋小路に来ていることを痛感した。「ターミネーター 2」や「ロスト・ワールド」など、脚本が陳腐なのにも関わらず特撮のレベルの高さによりヒットする映画は近年増えているように思う。このような特撮技術礼賛と、近年の社会に対する無関心の広がりとに何か通じるものを感じないだろうか。バーチャル・リアリティーも楽しいが、今私たちが必要としているのはむしろ、肉体感覚、生きる感覚なのではないだろうか。

生きる感覚の喪失こそが現代に生きる私たちにとって切迫した問題だ。だからこそ私は「もののけ姫」を高く評価する。たとえそれが万人好みの娯楽作ではないとしてもだ。生きる感覚を取り戻そう。そして、「もののけ姫」を生みだした私たちの感性を誇りに思おう。



映画「もののけ姫」をまた見て

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スタジオジブリ

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